甲子園への道

私が野球を始めたのは小学校4年生の頃、父が近所の少年野球の監督をしていて自然の流れで近所の同い年の子達と一緒に毎週土日に参加している感じでした。

周りの友達に比べたら体も強くなくそれほどインパクトのない選手だったと思います。

所属していた近所の少年野球のチームがなくなるということで父の知り合いのつてでリトルリーグ、シニアリーグという硬式野球のチームに所属しました。

有名大学に行くための有名塾や有名学校にいくイメージに近いかもしれません。田舎の野球場に照明をつけて平日の夜でも練習ができるような設備でした。監督がスポーツ用品店を営んでおり、野球道具は基本的にそこで揃えたりしていました。

この監督がとにかく厳しい監督で、当時(1996年頃)はまだまだ選手に対する体罰も日常茶飯事でしたから、ミスや無礼な態度などがあれば容赦なく殴る蹴るが横行していました。これが自分の両親だったとしたら恐怖のあまり2重人格になっていたかもしれません(笑)

いつもイライラしていたからなのか詳しいことはわからないけれど、私が所属していた、中学生の当時にガンでその監督が亡くなりました。お葬式での顔はすごくよく覚えてます。唇を強く噛んで歯形に紫色になっていました。身近な人が亡くなる初めての経験で、人生における「死」というものを近くで感じました♫この死生観というものについてはまた改めて描こうと思います。

中学校で所属したシニアリーグでは4番ライトというポジションでそこそこ背筋力に恵まれたので飛距離は出るほうだったと思います。シニアリーグでの通算本塁打数は4本、遠投は85mくらいだったかと思います。球種はストレートとカーブがほとんどだったのでストレートだけ待ってればそこそこの結果にはなりました。高校への進路を決める際、同じチームから3人私立の強豪校に入学することができました。中学三年生のとき高校の練習に体験として練習に参加したときはレベルが高すぎてついていけるか不安でビビりまくっていた記憶があります。それでも野球推薦で入学することができました。全部普通科の高校だったのですがスポーツ推薦でも中学生の時の成績が5段階評価で最低オール3は必要だったのですが英語だけ2で保健体育が4ということでギリギリでした。中学の担任の先生は経験上スポーツ推薦で名門校に入学するということが半信半疑でしたが実際に試験を受けて試験結果を見に行った時はほっとしました。結果として同じチーム出身3人は私も含めて全員高校のスタメン9人に入ることができました。

高校の野球部は当時、創部40年弱で夏の甲子園1回優勝、春の選抜は準優勝2回という実績でした。基本的に野球推薦などの入学生は全寮制で朝から晩まで一日中野球漬けという日々でした。部員は約60人〜100人くらいで寮生は50人前後だったと思います。

一般入試で入学して野球部に入部したい学生はまずセレクションという実践テストを受けます。合格した選手は基本的に自宅からの通学ですが稀に戦力として認められると寮に入ることができる場合もありました。

1年生はまず基礎体力作りで入学した時からずっと走ってばかりだったような気がします(笑)同期で入学した時からベンチ入りしていたピッチャーとショートの二人がいましたが本当の実力主義というのを実感した日々でした。努力でものになるものとならないものがあるなというリアルも感じました。

一年生の夏の県予選で決勝まで行って、あと一勝で甲子園というところで負けてしまいました。神奈川県は7回、8回勝たないといけないのですがこれだけすごい実力者の人たちが甲子園に出られないというのを間近にみて「甲子園出場」というのがとてつもなく遠くに感じました。

1年生の秋からベンチ入りをすることができ、ライトの2番手として、ライトのレギュラーがピッチャーをするときに出場していました。

秋、春、夏と全て県大会予選で敗退しました。夏はまさかの2回戦負けだったのでチムチム(新チーム練習)は例年より早くスタートして本当にキツかったですがこれが逆に自分の最終年が早く始まってチーム作りに時間をかけることができました。これは結構あるあるで強いチームが夏の甲子園で活躍した場合、主力選手が3年だと大幅な下級生との入れ替えがあるので、チーム作りに準備期間が足りない場合があります。これがあの名門がまさかこんなに早く、、、というドラマの主な原因です。

翌年の春の選抜甲子園大会への出場を目指して挑んだ秋の戦績は神奈川県大会優勝、関東大会優勝(ベスト4でほぼ選ばれることが確定)、神宮大会初戦敗退という結果でした。

この負けるとう経験が実はすごく経験としては大きかったと思います。どんな些細なことでも敗戦の理由になるということを学びました。常に挑戦者という心を持たざるを得ない。言葉でいくら言われても本気で思うというのは結構難しいです。

翌年、春の選抜甲子園出場32校(関東からは5校)に選ばれました。

あのテレビでしか見ていなかった世界をとうとう自分で実感するんだと!全国放送の前でしょぼいプレイはできないとか日本一になるには日本一練習しなければならないと思って冬季練習に集中して頑張りました。

部員は約2学年で60名。この中で16名のベンチ入りメンバーに選ばれ、9人のスタメンを目指し、全国4000校(15万人~20万人)からたった1校の全国制覇を目指します。今、自分で事業を手掛ける身からするとこんな確率で挑戦は二度としないだろうなと思います(笑)

オープン戦が始まり全く打撃成績があがらず、寮の部屋で一人親からの差し入れの煮物を食べている時泣いていた記憶があります。

野球というのはテレビや球場で見ている側からすると本当に理解しがたいと思うのですがメンタルコントロールが本当に大事になってきます。特に僕の場合、数字で現れる事実として得点圏打率が極端に低いタイプでした。要はチャンスに弱いということです。2アウトランナーなしや試験的な練習試合での打率が一番よかったです(笑)

何とか背番号一桁(右翼手なので9番)をもらい甲子園に乗り込みました。甲子園練習ということで人生で初めて甲子園球場に入った時のことは鮮明に覚えています。一塁側のスタンドから入場した最初の感覚は思ってたより感動しなかったなというか神奈川県の地元の平塚球場にすごく似ている形をしていたからかと思います。後にこの球場で5試合やって優勝することになります。

優勝したあとの感覚というか景色というのは言葉で表すのは本当に難しいです。シンプルに「全国制覇を成し遂げた」というのはなんか簡単すぎる気がするのですがなぜか校歌を歌い終わってアルプス席に走っているときに感じたのは「優勝くらいしないとこれまでの苦労が割に合わない」です。というのも中学生の時に所属したシニアリーグは家から10キロほど離れた山にグラウンドがあり両親が共働きだったため練習の前後は自分で自転車で通っていました。下半身はかなり鍛えられたのかなとは思います(笑)土日も試合がある時は朝の4時起きで夜21時頃まで野球漬けだったり、とにかく10代は野球漬けだったと感じています。高校入学後はそれこそ毎日朝7時から打ち込みを初め学校以外はすべての時間は野球の練習で普通の高校生の生活ではなかったかなと思います。これが優勝くらいしないと割に合わない感覚の理由です。

ただ、やはりレベルは高校生なのでその年の夏の予選大会では県立高校に負けるという波乱もありました。なのでどういう結果とかというよりも何を得たかということが後になって大きいなと感じます。やってる最中は結果にのみ集中なのですがあとから振り返るとということです。

得られたものはたくさんありますが、特に「忍耐力」「集中力」「決断力」かなと感じています。

あの有名会社Googleも人材採用に一番力を入れていて大学時代にスポーツを本気でやっていた人は評価が高いと聞いたことがあります。

名門大学に行っている人も、そこで学んだ学問が活かされる場合も多いですが社会人になって実体験として思うのは狭き門にチャレンジして結果にしてきた感覚や努力の仕方などの影響が一番大きいのかなと思います。

その後に役立ったエピソードは数え切れません。それらは他の投稿でさらに発信していきます。

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